戦国時代には、藍の色の一つである勝色(かちいろ)が、縁起の良さから武士の鎧(よろい)の下を藍で染めていたとも言われています。
山辺藍の産地として名を馳せた山辺地域、小笠原大城跡と水番城跡のふたつに囲まれた私たちの町では、江戸時代に蒅(すくも)をさらに加工し藍玉の状態にしたものが出荷されていたと古文書に記されています。橋倉に現存している藍蔵で当時の暮らしを想像してみませんか。
橋倉の藍作
山辺地方の藍作は、江戸時代後半から明治時代前半にかけてが特に盛んで、明治初期には、入山辺村、里山辺村ともに、藍は村内物産の主位を占めるほどであった。その製品は輸送に便利な藍玉にまで加工されて各地に送られていた。また地元産の藍で藍染めを業とする紺屋(こうや)が村内各地にあった。
橋倉では、藍は、薄川左岸のうつぎ野、右岸の伊勢田、八龍などのいわゆる一等地の水田に栽培されていた。明治元年には、藍玉を作る家は19軒、紺屋(農家と兼業)も2軒あった。(宮坂昌憲氏)
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