明治 5 年の学制発布をうけて、明治 6 年7 月、南方村旧瑞光寺に「南橋学校」が開設され学区は橋倉村・南方村となる。校舎は寺の廃堂 が利用された。そして明治9 年 1 月、南橋学校は橋倉地籍鉾塚に新校舎ができ移転。それとともに学校名も「橋倉学校」と改められた。 生まれながらに人間は平等だが、学問をするかしないかで賢人と愚人、貴人と貧人の差が生まれると説かれた書を学んだ橋倉の青年達。明治 19 年4月小学校令公布。「橋倉学校」は廃校となった。
明治9年の教科書は、国定教科書制度の開始前であったため、特定の指定教科書はありませんでした。教科書は民間の出版社が発行しており、文部省が検定・認可したものでした。代表的なものとしては、福沢諭吉の『学問のすゝめ』が挙げられます。


 

橋倉学校の歴史(明治9年学校名改名改名については不詳)

明治7年9月20日「学校新築願」を県へ提出→願いに対して「願之趣聞届候事九月廿日」(朱書)と許可がおりた。

* 明治8年11月新校舎落成

* 学校敷地に土地提供者:赤廣伴次郎 赤廣実次郎 赤廣兵一

* 新築に要した費用 6.25円99銭5厘

* 明治9年8月 筑摩県が廃止され信濃全域長野県管轄となる。県下一円第6大学区に入り、橋倉学校は第18番中学区第6番小学となる。

* 明治13年教育により学務委員を置く。選挙により百瀬徳蔵当選。桐原直躬に教員委嘱。

* 明治14年2月卒業試験を行う。

* 卒業者:第6級5名第9級4名第10級2名第11級5名第12級11名 12月学齢就学調査:就学32名(男22女10)未就学44名(男15女29)

• 明治15年戸長を学務委員に加え、「就学督責規則」を定め、学務委員をして厳しく学齢生徒の就学を促進させる。規則により改めて「村立橋倉学校設立伺」を提出し、許可される。

• 明治17年:就学調查 就学85名(男 47女38)不就学(事故)17名(男1女16

• 明治19年:小学校令公布 小学区画並に校数改正に関する長野県布達により、本校は東筑摩郡第二番学区山辺学校(里山辺川寺区)に統合され、廃校となる。



 

 

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